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ピース 又吉直樹さん
お笑いコンビ「ピース」のボケ担当であり、小説「火花」で芥川賞を受賞するなど小説家としても知られる又吉直樹さん。エッセイや俳句、絵本も手がけ、活躍の場を広げています。
サイロ800号を記念して、サイロの編集スタッフが又吉さんを訪ね、「書くことの魅力やおもしろさ」について話を聞いてきました。(稲船暁允、小野竜大)
―又吉さんは小さいとき、どんな子供でしたか。
僕は今とあんまり変わらないとは思うんですけど、先生にほめられようとかはあんまり考えず、自分でルールを作って、やりたいことを決めてやるっていうタイプですかね。例えば将棋って駒の動かし方って決まっているじゃないですか。僕、自分で考えて「この駒はこう動く」ってことにして遊んでて。年上の人たちに「お前、間違ってる」みたいなことをすごく言われるんですけど、僕はそれがなかなか理解できなくて、「なんでこの人たちって、こんなに嫌がらせをしてくるんだろう」みたいな。僕がタイトルをつけて絵を描くとかでも、みんな何か言いたがるんですよ。「そうじゃない。間違ってる」って。でも、そういうのは正解があるようなものでもないんで、創作とか表現っていうのは勝手にやるのが一番じゃないかなって思ってますね。
―昔から「書く」ことは好きだったのですか。
子どものころから、書く力、読む力というより、「こうしなさい」って言われてることから自分からはみ出すようなところが僕にはあって。みんなの作文聞いて「ほんまおもんないな」と思ってて。例えば、遠足だったら、「どこどこ行きました。何時に集まって、なになに君と一緒に行って、こんな話して帰ってきました。一生忘れません」みたいな。それ聞いて、「忘れるやろ。お前」って思ってたんで。
僕、面白かった作文の一例として、みんなの前で読まれることが多かったんです。遠足の中でも一番印象に残ったところだけ書き続けてました。小学校の時に書いたので言えば、手をつないで歩くじゃないですか、遠足って。僕らの時代はそうやったんですけど、それが恥ずかしいのもあるし、ダメなんですけど、列から遅れて僕は一番後ろをタラタラ一人で植物とか見て歩いてて。だから、教頭先生が僕についてくれて。ずっと歩いてたら、みんな見えないんですよ。だいぶ先行ってて。下りの山道やったんですけど、 斜面になってる林の下から友だちの声が聞こえてきて、先生に「この下におるから、ここ突っ切ったら追いつけるで」って言ったら、先生も「行こう」ってことになって。二人で道になってない林の坂を下って行ったら、僕が足滑らして木の枝折っちゃったんですよ。それ見て、先生に「植物も生きてるから木は折っちゃいけない」みたいなこと言われて、「すいません」って。で、次の道出て、まだ下から声するから、先生に「もう一回行ったら、多分追いつけるで」って、先生も「気をつけて、行こうな」って僕に念を押して行ったら、今度は教頭先生が足滑らして「わー」って言いながら木、折りまくってたんですよ。その後、「このことは誰にも言うなよ」って先生が言ったとこまでを作文に書いて、めちゃくちゃウケたんですよ。それ聞いて教頭先生のこと嫌いになるやついないじゃないですか。人間がやりがちな失敗やし、こっちが愛情持って書いてれば「教頭先生、おもろいな」ってなるし。本当にそこだけ切り取って書いていたって感じなんです。
文集作るんだったら行程みたいなものは先生が書けばいいんですよね。あとは自分が何を感じたかを書きましょうということでいいんじゃないかな。それぞれの感覚と視点のものが何十個も集まったら、重なりをできるだけ避けた記憶の共有じゃないですか。僕は割とそういう風にずっと書いてきましたね。
―お話を聞いていて、瞬間や場面を切り抜くところが、 詩と共通していると感じました。又吉さんにとっての詩の魅力を教えてください。
詩を読むこと自体好きなんですけど、言葉を並べることによって、いつも見ていた風景がおもしろく見えたり、美しく見えたり、悲しく見えたりする。世界の見え方がちょっと変わる。普通に受け入れてたけど、これって確かに誰かにとってはしんどい景色やったんやな、みたいな気づきがあるのが一つ詩の魅力だと思います。
それ以上に僕が思うのは、やっぱり言葉の使い方が散文とは全然違うっていうところです。言葉ってあいまいに作られてるんですよね。「この感情は言葉で言い表せない」みたいなことみんな言いますけど、言葉ってそもそもそういうもので、自分の感情と完全に合致する言葉が存在したら、今の言葉の百倍くらいに膨れ上がるわけじゃないですか。「好き」と「めっちゃ好き」の間、グラデーションになってるすべてにちゃんと言葉がついてたら、好きっていう感情を表すだけで百、二百もの言葉が必要になる。それが全ての事象になったら、本当に限られた一部の人間しか使えないものになってしまうじゃないですか。だから言葉って、ある程度あいまいで、みんなが使い回せるぐらいの、雑なデザインになってるんですよね。それでも日本語はいろいろ細かい単語もありますけど、詩っていうのは、そのあいまいな言葉の組み合わせ方で、こんなにも感情とか、本当のことの近くにいけるのかっていう運動だと思うんですよね。普通の文法とか、普通の説明的に書かれてないから、「あれこれどういう意味やろ」って飛躍を感じるんですけど、この単語で頭に浮かぶ雰囲気に、次に来る単語が重なって、本来の言葉の用法とは違う方式で何かを表現するっていう、かなり高度で、おもしろいものだと思いますね。
―サイロ6月号を読んでいただいて、気になった作品はありますか。
「雨のにおい」、これおもろいですね。文体がおもろいな。「あっつい」も好きですね。タイトルもいいし。この、ちっこい「っ」を入れてるのが、僕は表現やなと思うんですよね。「あつい」って書いちゃいそうじゃないですか。でも、「あっつい」って書いた方が、どれくらい暑いのか、分かりますよね。「あつくて ねそうでした」ってあんまピンとこないけど、ほんまに暑かったら確かに眠たくなるみたいな感覚が、自分の中にあるものを呼び起こされている感じがします。嘘がないというか、いいですね。
文法とかって、実は絶対守らなあかんことでもなかったりするし、言葉もちょっと変えちゃってもいいと思うんですよね。ここ何年かですけど、自分でハマってるのが、小説の中に、昔からあったかのように存在しない熟語を入れる。辞書を調べても載ってない熟語。こんな言葉あったっけ、っていうのを。小説『生きとるわ』の中では「暇痴(ひまち)」って言葉を使ってて。要は時間があり余って人の文句ばっかり言ってる人たちのことを、めちゃくちゃ恥ずかしい熟語にしたら、自分はそうはなりたくない、「暇痴」ではないって思いたい人が増えるっていう。言葉の力みたいなのがあると思うんです。
サイロを読む又吉さん
―確かに。整った言葉やきれいな言葉遣いといったものにとらわれることが、表現の妨げになっているところがあるかもしれません。
小学校の時の教科書に、沢田さんっていう同い年の女の子が出てくる「沢田さんのほくろ」っていう作品が入ってたんですよ。ほくろのことを友達にいじられてて、学校に行きたくないみたいな話なんですけど。それについての作文を書く時、みんな「沢田さん」って書くんですけど、 僕は当時クラスの子をみんな呼び捨てで呼んでたんで、「沢田は」って書いたんですね。やっぱり赤点入れられるんですけど、誰が一番この作品に感情移入して、リアルに沢田の気持ちを考えたかって言ったら、「沢田」でいいんですよ。それは僕のこだわりやから。僕なりの沢田との距離感だから。みんなは、存在しない教科書の中の課題として出てきた「沢田さん」という人物について考えてるけど、僕は、この教室に、この学校に、もし沢田さんがいて、こういう風ないじられ方をしたときに、自分はどう思うかまで具体的に考えてるから「沢田」になるわけじゃない。むしろ先生は「お前よく考えてんな」って言ってもいいぐらいなんですよ。だけど、たぶんそのまま見て「いや、沢田『さん』やで」って言うところに、僕が何を考えてそうしたかっていうことは汲み取られてない じゃないですか。そういうことが多かったなっていう気はしますね。
高校1年の時に、先生が「自分の両親のことを父母ではなく男性・女性と見れた時に、ようやく自分の精神性が自立したと私は考える。君たちはどう思うか」みたいな設問で作文を書く授業がありました。みんな「やっぱ、そう思える」という書き出しなんですよ。要は先生の設問に対して、「俺はそれ、分かってるよ」ってみんな書いちゃうんですけど、でも僕は書き出しで、「いや、両親のことを男女と呼ぶ必要がない。永遠に父は父、母は母であって、これからも絶対にそんなふうには思わない」って。先生も別に迎合した答えを望んでるんじゃなくて、そうじゃない先生の方が多いと思うんですよ。
―又吉さんがもし、子どもたちの前に立ったとしたら、「表現すること」をどのように伝えますか?
枠にはめに行くっていうのが、創作の第一段階じゃないですか。学校で教えるとなった時に、自由にやれって言ったらできちゃう人もいると思うんですけど、ほとんどが何から手をつけたらいいか分からない。だから、枠を教えるところから始まると思うんですけど、僕、どっかのタイミングでその枠を破壊するシステムを先生側が作った方がいいんじゃないかなって思うんですよね。そういう表現方法があるんだっていうふうにする。
僕が一回、番組で子どもたちにやったのは、太宰治の「畜犬談」っていう短編を紹介しました。結構難しいので、ちょっと短くして、どういう話なのかっていうのを自分の話に置き換えて小学5年生か6年生にしゃべって。要は、自分の恥ずかしい部分って基本的には隠す。作文とかでも、ちゃんとした自分を置く場所になってるけど、あんまり人に言いたくないなと思うことをおもしろく書くことによって、常にちゃんとしなければいけないっていう自分から、ダメな部分もある自然な自分になれる。作文って「恥」 がない世界みたいなことになりがちなんですね。でも恥は世界にあって、全員恥をかくわけだから、恥との付き合い方みたいなものをやろうと。ただ し、ほんまに誰にも言いたくないこととか、墓場まで持っていかなあかんみたいなことは書く必要もない。ちょっと笑えるぐらいのっていう話をして、自分の恥ずかしい話をして、みんな笑いながら聞いてくれて。で、全員と面談したんですよ。「恥ずかしいことある?」みたいな。ほんで最後、全員、自分の恥ずかしいことについて書いて、一人ずつ発表していったら、ほんまにみんなウケたんですよ。例えば、男の子で友達とキャッチボールしてる時に、どうしてもおならがしたくなって。でもこれ音でバレるなと思ったから、キャッチするパシンっていう音と同時におならをすることにした。それは成功したけど、においで友達が「臭い」って言い始めて、どうしたらいいかわからんから、自分がしたのに「お前、屁こいた?」って友達に聞いてしまった、みたいなことを書いてる子がいて。この子はセンスありすぎましたけど、みんなそれぐらいのことを書くんですよ。
ある男の子は人前で発表したり表現するのが苦手な子で、その子としゃべっていたら、遠足に行った時に一人でお弁当を食べていたら、外国人の観光客の人が道に迷っている感じで、よりによって自分に話しかけてきたと。外国人としゃべったことがないけど、力になりたいと思って、でも日本語でしゃべるしかなくて、初めてやったから、その日本語がアメリカっぽい発音になってしまって、すごく恥ずかしかった、と書いてて。それもめちゃくちゃウケてね。
あったことを美しく、ちゃんと作文のフォーマットに乗せて書きましょうって、それをできない子が多いから、それができるようになるのも大事なんですけど、ある程度できたら、そうじゃないやり方もある。そもそも文章って退屈なもんじゃなくて、笑えたり、なんか感動を促せたりするもんなんだっていうことに気づける。そういう書き方をこっちから提供する、っていうことができればいいなと思いますね。
―最後に、又吉さんにとって、書くことの原動力、 魅力を教えてください。
なんですかね。いっぱいあるんですけど。書いてる時にしかわからないことっていっぱいあるんですよね。答えがもう決まってて、それに向かって書いてるんじゃなくて、「これって何なんやろう」って思いながら、わからんことを書いてるんです、基本的には。書きながら書きながら気づいていくんですよね。書いた言葉がその次の一行を呼び込んでいくんで、書く前に面白くなるかどうかなんてわからない。だから、書き終わった時に自分で驚く。俺ようこんなん書けたな、って思えるものじゃないと、なんかあんま意味がないというか。多くの人がそういう体験をしてると思うんですよ。日記を書いてたら、自分ってこう考えてたんや、みたいなことが明らかになるっていう。その面白さが、僕は一番大きいですかね。
インタビューの後、「書くこと」に向き合う子どもたちへ一言メッセージをお願いすると、快くペンを取ってくれました。色紙に記されたのは、「みんながおどろくようなことを書いてください。」という一筆。そのシンプルで力強いエールが、子どもたちにとって書くことの原動力になることでしょう。(稲船)
直筆のメッセージを手にする又吉さん(中央)と
編集スタッフの稲船(左)、小野(右)